可能性開花ブログ 現実世界とは自分が認めたものの現象化1 こんにちは。 可能性開花トレーナーえっちゃんです。 今日もブログにお越しいただき、ありがとうございます。 先日、フィオーレのオンラインサロン内で面白いやりとりがありました。 お金についてどう思うか。 お金っていくらあったら生活できるか。について。 無一文になった時のことを考えたことがなかったので、どうなんだろうかとちょっと考えてみたのですよね。 私はここで、昔体験したちょっとおもしろいことを思い出したのです。 結婚して間もないころ、夫はお給料が良かったので、同年代の友達からすると、私は裕福な生活ができていました。 先に結婚した友達や先輩主婦たちが節約しながら生活をするのを見て、結婚した当時かなり若かった私は、なんだかそれが「大人」って感じがしたのです。 節約をして生活をする、それがかっこよく思えて、節約術を教えてもらい、真似をした時期がありました。 サラリーマンだった夫の給料から、ギリギリ生活できる数万円だけを生活費に回し、それだけで生活をするということを続けたのです。 そして、節約しなきゃ・今月はこれだけでやりくりするんだと頑張りました。 欲しいものを我慢し、野菜の切れ端を使って栄養バランスを考え、破れた靴下を繕ってはき… 当時の私はそれが大人に思えたのですよね。 その当時を振り返って、今わかったことがあります。 それは、お金って、あると思うとあるし、ないと思うとないってこと。 実際には困らないだけのお金があっても、心から「無い」と思い込むと「無い」世界が展開したのです。 実際にはあるのに、それがわからなくなる。 あっても無いということを信じてしまうし、だからあることすらわからなくなる。 内側で信じていることがその人の現実になるので、実際に「無い」という内側の世界がイメージされ、それが現実に投影されるので、無いという現実世界が展開したのです。 夫はサラリーマンだったので、毎月お給料を持って帰ってきます。 だから、翌月には当然増えるのです。 ましてやボーナスも結構な額をもらっていたので、当然どんどん増えていくんです。 増えていってるんですが。私の心の中では本当に「無い」のです。 あるのに… 何が言いたいかというと、実際にお金があるとか無いとかではなく、あると思えばあるという世界に住むことになり、無いと思えば(たとえあっても)意識に上ってこないので、無い世界になるんだなぁと。 当たり前っちゃ当たり前なんですけどね。 それを思い出したとき、豊かな生活というのは、物質としてのお金がどれだけあるかっっていうのは関係ないのかもしれないと。 すでに持っているという状態にいかになれるかどうかが、豊かな生活をするカギなのではないかと思いました。 今思うととても不思議な経験で、物理学者のデビット・ボーム氏やニールス・ボーア氏がおっしゃっているように、「自分が認めているものが知覚に支えられリアリティとなる」というのは、まさにこう言うことなんだなと体感できた経験でした。 これはお金に限ったことではなく、この世界のすべてにおいていえることですね。 お金という目に見える物質でさえそうなのだから、ましてや、愛や思いやりというような目に見えないものはなおさら、それを信じていること、それを受け取れる自分という自己信頼と器がないとわからないのだろうなぁと思います。 実はこれにはまだ続きがあります それはまた後日に。 投稿ナビゲーション 苦しいときは 現実世界は自分が認めたものの現象化2
こんにちは。
可能性開花トレーナーえっちゃんです。
今日もブログにお越しいただき、ありがとうございます。
先日、フィオーレのオンラインサロン内で面白いやりとりがありました。
お金についてどう思うか。
お金っていくらあったら生活できるか。について。
無一文になった時のことを考えたことがなかったので、どうなんだろうかとちょっと考えてみたのですよね。
私はここで、昔体験したちょっとおもしろいことを思い出したのです。
結婚して間もないころ、夫はお給料が良かったので、同年代の友達からすると、私は裕福な生活ができていました。
先に結婚した友達や先輩主婦たちが節約しながら生活をするのを見て、結婚した当時かなり若かった私は、なんだかそれが「大人」って感じがしたのです。
節約をして生活をする、それがかっこよく思えて、節約術を教えてもらい、真似をした時期がありました。
サラリーマンだった夫の給料から、ギリギリ生活できる数万円だけを生活費に回し、それだけで生活をするということを続けたのです。
そして、節約しなきゃ・今月はこれだけでやりくりするんだと頑張りました。
欲しいものを我慢し、野菜の切れ端を使って栄養バランスを考え、破れた靴下を繕ってはき…
当時の私はそれが大人に思えたのですよね。
その当時を振り返って、今わかったことがあります。
それは、お金って、あると思うとあるし、ないと思うとないってこと。
実際には困らないだけのお金があっても、心から「無い」と思い込むと「無い」世界が展開したのです。
実際にはあるのに、それがわからなくなる。
あっても無いということを信じてしまうし、だからあることすらわからなくなる。
内側で信じていることがその人の現実になるので、実際に「無い」という内側の世界がイメージされ、それが現実に投影されるので、無いという現実世界が展開したのです。
夫はサラリーマンだったので、毎月お給料を持って帰ってきます。
だから、翌月には当然増えるのです。
ましてやボーナスも結構な額をもらっていたので、当然どんどん増えていくんです。
増えていってるんですが。私の心の中では本当に「無い」のです。
あるのに…
何が言いたいかというと、実際にお金があるとか無いとかではなく、あると思えばあるという世界に住むことになり、無いと思えば(たとえあっても)意識に上ってこないので、無い世界になるんだなぁと。
当たり前っちゃ当たり前なんですけどね。
それを思い出したとき、豊かな生活というのは、物質としてのお金がどれだけあるかっっていうのは関係ないのかもしれないと。
すでに持っているという状態にいかになれるかどうかが、豊かな生活をするカギなのではないかと思いました。
今思うととても不思議な経験で、物理学者のデビット・ボーム氏やニールス・ボーア氏がおっしゃっているように、「自分が認めているものが知覚に支えられリアリティとなる」というのは、まさにこう言うことなんだなと体感できた経験でした。
これはお金に限ったことではなく、この世界のすべてにおいていえることですね。
お金という目に見える物質でさえそうなのだから、ましてや、愛や思いやりというような目に見えないものはなおさら、それを信じていること、それを受け取れる自分という自己信頼と器がないとわからないのだろうなぁと思います。
実はこれにはまだ続きがあります
それはまた後日に。